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鈴木剛

鈴木 剛

1971年9月生まれ 出身地 静岡県藤枝市

大学に入学するまでの18年を藤枝で過ごす。雪も降らず氷点下の寒さもなく温暖でかつ志太平野の坂のない平地、今思えばのんびりしていて過ごしやすかった。サッカーの街藤枝だけあってもれなくサッカーを始め、少年団時代の市長杯リーグ4年の部で優勝したことが藤枝時代の唯一の自慢だが間もなく挫折。地元一の進学校藤枝東高校に入学後間もなく燃え尽き症候群に。

第一志望の地元の大学入学を果たせず山梨大学工学部化学生物工学科(当時)に入学、ワインの道に進むきっかけとなった。大学3年時に応用科学コースと醗酵コースに分かれるが、酒好きもあって醗酵コースに進むことになる。その後はウスケボーイズの面々との飲み会などでワインに開眼。卒論テーマは「マスカット・ベリーAにおける糖代謝酵素インベルターゼの発現」である。

卒業後は勝沼の中央葡萄酒㈱グレイスワインに入社。8年間主に醸造の現場で勤務。垣根栽培の欧州系品種の挑戦、甲州種が世界的にも評価されはじめる、そんな時期である。社内結婚した順子と週末にでも畑を始めたいと空き畑をさがしていたところ旭洋酒が引き継ぎ手を探していると2001年12月に紹介された。今思えば、自社畑もなく、武器を持たない手ぶらでの出発だったが無謀にも即決、翌年3月から新生旭洋酒をスタートさせた。

順子が栽培、私が醸造の責任者となりはや20年続いている。大胆なチャレンジとういうよりは慎重派。設定した時間通りに作業を終わらすのが好みだがこの点は順子と正反対かも。

趣味はウォーキング場所を求めてのドライブ、一番のお気に入りは朝霧公園の田貫湖。読書はあまりする方ではないが深澤直人著「デザインの輪郭」は熟読している。コロナ禍もあってか「ふつう」とういことを考えさせられ、自分のワイン造りにも何か通ずる一冊である。

好きなワインはグリューナー・フェルトリーナー、アシルティコ、ヴェルメンティーノといった白地品種と千野甲州ノンバリック。

(令和3年5月執筆)

鈴木順子

撮影 つづり舎

鈴木 順子

1970年1月、父の赴任先の熊本市で生まれ、翌年には関東に戻る。埼玉県浦和市→神奈川県二宮町→浦和市→ドイツマインツ市→浦和市と引っ越しが多かった。ワインを知ったのはドイツで、夏の暑い日にミネラルウォーターを切らしていて仕方なく冷蔵庫にあったTafelweinをゴクゴクやった。うまかった。

中学から東京江東区に落ち着いたが校内外暴力が吹き荒れていて、反動で高校は調布のお嬢さま校に東京横断通学、自由選択枠が多く美術室と図書室で長い時間を過ごした。大学には2回行った。最初は演劇にのめり込み、授業には出ずバイトばかりしていた。劇団指輪ホテル(現在も活動中)を羊屋白玉さんと旗揚げしたが2回作演をやって退き、その後2年間は飯田橋の日仏学院でフランス語をやりながらまだフラついた。25歳で都立大に学士入学しフランス文学とヨーロッパ哲学を今度はちゃんとやった。フランスに語学留学した際、頼み方が分からなかったのでワインの入門書を読むようになったり、研究テーマだったライプニッツのモナドとワイン酵母をアナロジーで考えたりしていたが、そろそろ就職しなければという頃、ドラマ「ステュワーデス刑事」のブルゴーニュ編を見たのが進路選択の決め手になった。もちろん現地ロケで、一路真輝さんがソムリエで犯人だった。

新卒のふりをしてインポーターや大手メーカーに就職活動をし始めた頃、山梨出身の研究室助手が地元にワイナリーがたくさんあると教えてくれた。作る方が楽しそうなので、関東甲信の目ぼしいワイナリーに問い合わせたところ、中央葡萄酒の三澤社長だけが会ってくれる事になり、新宿のホテルで開かれる詩人の出版記念パーティーの前にロビーで面接した。麻井宇介さんの本を薦められ、畑専任なら可能性はあるので作文を書いて送るように言われ、書いて送り、採用になった。第5次ワインブームの直後でラッキーだった。もともと農業に関心があった訳ではなく、土をいじった事もなかったが、ブドウ畑の仕事は向いていた。社会性が無かったので修業規則に関係なく没頭し、遅くまでやっていたら醸造担当の鈴木さんが来て飲み物を差し入れてくれた。お互い色々あって、翌年結婚した。その年、入社2年目でブルゴーニュと南仏に一か月、一人で研修に行かせてもらい、ステイ先のフランス人に「今度は旦那と来な」と言われたが、未だに一緒には行っていない。

旭洋酒を始めて10年はあっという間で「それ」以外何もしていない。東日本大震災が起き、はっと我に返った。ワインに実(reality)を持たせるためにも、ワインだけ作っていてはダメだと思った。映画や音楽のために出かけるようになると、置き散らかしてきたものを回収するようにスルスルと体に染み込んだ。ワインを媒介にすればアートとエコノミーとエコロジーが結び付くのではないかと思い、2017年と2018年に音楽イベントを開催した。集客も出費も大変だったが盛況だったので続けようと思っていたが、一年空けたらコロナになってしまった。売り上げが落ちイベントどころではないが、それ以前から消費層の世代交代と日本ワイナリーの林立で生存競争は始まっていた。だから(溺れないために)どの方向に舵を切るべきかを今コロナが教えてくれていることになる。イベントではない、音楽やアートとの融合も去年から考えたりしている。

父がクリスチャンで子供のころ家族で聖書を読んでいたので、ワインというとそこに出てくる葡萄酒。それはまず赤ワインであり、血であり、恵みでも贖いでもある。昨年の仕込み期、いつものように赤ワインのかき出しで短パンで醸しタンクに入っていた時「これが私の洗礼なんだ」と直観する瞬間があった。温暖化でブドウの色が来なくなり、どうやって赤を続けていくかが最後の課題。

(令和3年5月執筆)