history

history

撮影 つづり舎

ワイナリーの看板
コンクリートタンク
ワイナリーの工場
ワイナリーの工場
history01
history02
history03
history04
previous arrow
next arrow

2001年、山梨市の住宅街にひっそりとあるブドウ農家の共同醸造所が、免許と設備ごと売りに出されました。戦前からこの地で、主に自家用ワインを醸造してきましたが、ブドウ農家の減少と醸造家の高齢化を理由に組合の解散が決まったのです。幾人かの事業家らが我こそはと挙手しましたが、運命を味方につけ経営権を獲得したのは、最も経済力の乏しい30歳そこそこの私たち夫婦でした。

運命の歯車

当時、夫は醸造、妻は栽培担当スタッフとして、同じ勝沼の中堅ワイナリーで働いていました。醸造期が終わったその年の初冬、週末に二人でやる畑を探すために助言を求めたある栽培指導者から、思いもよらぬこの売り案件の話を持ちかけられたのです。夫婦には、将来は自分たちのワインを作りたいという漠とした夢があり、またこの栽培家には、独自の技術をワインで腕試ししたいという密かな野望がありました。折しも、戦前まで造り酒屋を営んでいた妻の母方祖父が他界し、相続分を同じ酒造りの道で役立ててほしいという母からの申し出を留保していた事情もありました。それぞれの思惑と偶然が重なり、運命の歯車が動き出したかのような出来事でした。2002年春、地元有志の応援も受け、旭洋酒という古い名を残す形で、私たちはワインづくりの大海原に小さな筏を漕ぎだすことになったのです。

はじまりの葛藤

ところで、私たち二人は20代で浅井昭吾(麻井宇介)さんの薫陶をうけ、世界に通用する日本のワインを目指して胸を熱くしていました。「雨の多い日本ではどうせ良いブドウは作れない」という宿命論に屈する事なく、ワイン用に特化したブドウ栽培と、それを生かす醸造にそれぞれが真摯に取り組めば、必ずやいいワインが出来る!と、麻井さんは若者らを奮い立たせたのです。彼こそが青春の真っ只中にいるかのような知的探求心と情熱は、今も私たちの心の芯を温め続け、理想を追求する事の大切さを思い起こさせてくれます。

私たちに舞い込んだ旭洋酒という環境には、麻井さんの推奨するワインづくりとは相容れない部分が多くありました。ここ山梨の峡東地域は古くからの生食ぶどうの産地で、丘陵地の多くはぶどう棚に覆われ、麻井さんが勧める垣根栽培に本格的に取り組むには向いていません。温暖化にしても、新たに取り組むならば北へ向かうのが正しい解でした。しかし私たちは悩んだ末、従来の棚栽培を改良した短梢式棚栽培を中心に、この地でワイン用品種に取り組む事に決めました。新短梢栽培とは、横から見ると垣根の幹を棚の高さまで伸ばし、枝を左右に振り分け水平方向に倒したもので、垣根同様ブドウの房や枝が一列に並ぶため、日当たりや通気性を保つ事が出来る合理的な仕立てです。そして私たちに旭洋酒のM&Aを持ちかけた人物、小川孝郎氏※こそ、そのオーソリティでした。

※『草生栽培で生かすブドウの新短梢栽培』
小川孝郎著 農文協刊

有りものからの創造

この仕立ては既存のブドウ棚を使うため、高齢化で継ぎ手のいない農家の畑を引き継いですぐに始められ、耕作放棄地を増やさないという社会的行為を個人単位で実践できる方法でした。また「有り物を使って新しいものを作る」というブリコラージュ※の思考にも適っており、また、それまでの経験から垣根式でないと良いブドウは作れないという認識はありませんでした。

そして何よりも、農家の共同体である旭洋酒の人々との交流は、他県出身の私達にとっては新鮮で、そそられるものだったのです。農家のおじいさんたちが公民館の寄り合いの席で、湯呑に葡萄酒をなみなみと注いでは割りばしで助六寿司を頬張る光景は、日本全国探してもこの峡東地域でしか見られないでしょう。土地の人にとってはありふれた、古臭い、今まさに廃れようとしている土着の文化を目の当たりにし、そこに手を加え新しいものを生み出したいという欲求は一度芽生えると引っ込むことはありませんでした。60年あまりに渡って醸造を担当してきた三郎さんがタンクから柄杓で汲んできた甲州種ワインは、「美味しい!」とはお世辞にも言えないものの、予想に反して傷みのないクリーンなものでした。コウバは薄汚れてはいたものの、ワインを汚染する菌は棲み着いていなかったからです。

こうして、わずか一か月余りで心を決めると、これもまた運よく、栽培を断念されたばかりの垣根式の畑を自宅近くの山梨市八幡地区に借りる事ができ、3月には正式に経営を譲り受け、5月にはその最初の自社畑にメルローを接ぎ木しました。少し離れた岩手地区の小川氏の畑には既にピノ・ノワールが新短梢仕立てで植えられていました。

※ブリコラージュについてはこちらを参照

波頭の端にいた

醸造初年度は全て買いブドウでしたが、初仕込みの甲州種の樽発酵が、翌2003年に開催された山梨県産ワインのワイン愛好家による人気投票で優勝しました。2004年にはイギリスで出版されたWorld Wine Report 2004で「80年の歴史ある共同醸造場が若い夫婦からなるワインメイキングチームによって生き返った」と取り上げていただき、ワイン王国別冊『日本ワイン列島』では2003年のソレイユ甲州が特選国産ワイン36本に選ばれました。全国選抜で入選するのはこの時が初めてだったので純粋に嬉しかった事を覚えています。この頃が日本ワインへの注目が高まった最初の波だったように思います。私たちが旭洋酒を始めた事を当時まだ五一ワインにいた城戸さんに報告したあと間もなく、城戸さんも独立したので、そういう意味ではその後の日本ワインブームに少なからず影響を与えたという自負があります。2006年には自社畑産ピノ・ノワールとメルローの1stヴィンテージからなる「それいゆ」シリーズをリリースし、2007年には先のWorld Wine Report2009 でルージュ クサカベンヌ2006がMOST EXCITING OR UNUSUAL FINDS部門でアジア一位になり、2008年には小川氏の甲州種の樽発酵「千野甲州2006」がG8洞爺湖サミットの婦人昼食会でサービスされるという栄誉に浴しました。それからも数々のイベントやワイン会に呼んでいただき、お陰様で夏~秋は農作業と仕込みに専念できました。転機が訪れたのは東日本大震災のあった2011年で、それまで力試しのために出品していた国産ワインコンクールから完全撤退する事を決めました。出品時で在庫数1000本以上という縛りや、1点につき10,000円というエントリー料も理由ではありましたが、コンクールでの評価よりもお金を出して買ってくれる顧客の評価の方が大切だと考えたからで、これは今も変わっていません。2018年から始まった「日本ワイナリーアワード」では2020年に星がひとつ増え、5段階で最上位の次の四つ星の評価をいただきました。地道に健全なブドウから健全なワインを作り続けてきた事が評価されたのはありがたい事です。


環境の変化の中で

経営譲渡から20年近い年月が流れ、世の中は大きく変わりました。日本では規制緩和を受け、ワイナリーを起業する人がここ10年で爆発的に増えました。一方で、人口減とアルコール離れが進み、購買層が変わり、売り方も伝え方も変わりました。そして予想を上回るスピードで押し寄せた気候変動のうねりの中に投げ込まれ、ブドウ栽培も大きな影響を受けています。2008年には温暖化を見越してシラーを植えましたが、2019年には色の来なくなったメルローの畑を一枚手放し、別の品種の試験栽培を始めました。そうこうしているうちに、前代未聞のコロナウィルスが地球を席巻し、、。

始めた最初の頃、支援者からは「こんな古いコウバは早く売り払って眺めのいい高台に移転したら」とハッパをかけられたものですが、ワイン産業、延いては世界経済の趨勢の中で、自分たちらしいワイン作りを「来年も」続ける事を最優先にやってきました。畑や事業の規模を拡大する事なく、古い醸造場に少しずつ手をいれながら、自社畑と周辺農家のブドウだけを用い、今も手作業に重きを置いた丁寧なワインづくりを続けています。幸い、UターンやIターンでブドウ農家になる若者たちとの出会いに恵まれました。また、北海道から九州に至るまで、ワイナリーを訪れてくださり顔を突き合わせてお話をして始まった、全国の酒販店さんらとのお付き合いも、毛細血管のように行きわたり私達の活動に血を通わせてくれています。

それでは果して、20年前に抱いていた漠とした夢は、もう叶っているのでしょうか?

いやいや、そんな事は全くありません。というのも、私たちにはもともと決まった目標やゴールはなかったからです。

philosophyにつづく)